生死観
昨日の西田文郎先生の講座の中で、改めて心の中の声を言葉にしました。
というのは、自分の理想の亡くなり方を語る事がありました。正直、私の中ではもう15年ほど前からあるものですが、改めて口にしようとすると、最近の家族の事などもあり、全く違うものとなりました。
人は生きることを考えると、「どうするか」を考える。
けれども、死を考えると、「何を残すか」を考える。何をするかもあるが、何を残すか。生かされているということは、何かをするために生かされている事に気づきなさい。
と言うメッセージでした。
そのために、講座では、まずは自分の死をイメージするところから始まりました。
私にとっては、小学3年生の時に母から聞かされた出生時の話から、「私はどうしてこの世に生まれてきたのか」を考えたし、迷惑かけないために必死にもなりました。
その結果、与えられた役割をしっかりこなすことでした。
リーダーとしてまとめる事の多かった私は、こうしてチームをまとめるために私は居ると思っていたのに、進学・就職の度に違うと思う。その度に打ちのめされたように「どうして生かされているのか」を考えたりもした。
今考えると、子供らしくないですよね。
いきついた所が「周りの人たちの元気を取り戻すこと」「笑顔にすること」でした。
それからずっと精一杯生かされてきたけれど、家族の生きるために必死になる様子を目の当たりにすると、心の底からただ生きているだけで幸せだと感じられるようになりました。
誰が何と言っても、誤解されても、一瞬は落ち込むけれど、急激には落ち込まなくなりました。
倒れ、意識が戻った瞬間に身体が思い通りに動かなくて、「助けて~」と何度も叫んでいた家族の声が今も耳から離れず、たまに自分の心が弱った時に、その悲痛とも聴こえる叫び声が耳にこだまします。
その度に、自分の心が今叫んでいるんだって思うようにもなりました。
私が今、娘に、後世に、残せるものは何だろうかを考えてきました。
けど、改めて昨日口にしてみてわかった事があります。
それは、私自身が小学生の頃から、「私が急にこの世から居なくなる時」を想像していた頃と何ら亡くなる間際のイメージが変わってないということ。家族がリアルに見えるようになっているだけで、何も変わっていなかった。
「幸せものだなあ。今までありがとう」と言って逝くこと。
だから日々後悔しない生き方をしてきたつもりです。
誰と何かあっても、そこだけに拘っているのではなく、先のために時間を重ねようと思えている事も、きっとそのイメージがあるからなんだろうと思います。
人は生かされている。
これほどシンプルで衝撃的な言葉は、今までの体験を通しても早々無いと思います。
自分の命をどう活かすのか。
あなたならどう活かしますか。