自分の思いは偽善なのではないか

ふと昨日、自問自答してしまいました。相田みつを美術館に行ってみると、生きていることに関してへのメッセージも沢山ありました。その中でも、「人の為とかいていつわりと読むんだなあ」というような一文があり、心に刺さりました。私の思いも偽善なのではないか。

自分では本気のつもりで居ても、ふとどこかでその人達のことを分かってない部分だってあるんだよなと思っていました。帰ってきたときに、講演の受講者からの一通のメールが届いていました。「小林さんのメッセージがすごく嬉しかった。元気になれたし、肩の力が抜ける思いでした」という言葉がありほっとしたのだけれど、その人の被災された状況はその人の体験でしかないから、どこかゆとりを持って接している自分を感じた。同じになれるわけじゃないけれど、その人にとっては大変な思いなのに、自分はその思いを感じた上で言葉を発していたのだろうか?自分の思いを押し付けたに過ぎないのではないだろうか」そんな思いを一段と強めました。

そんな時に思い出した言葉がありました。
「偽善でもいいんだよ。何もしないよりもした方がいい。そうしてしている間にやっと相手の思いが汲み取れて、本気になって、ありがとうといわれることによって、やっと慈善へと変わっていくのだから」
そう言っている人の言葉がずっと気になり覚えていたのです。
その言葉をこのタイミングで思い出したのも意味があるように感じました。

その場を五感を通して知ったわけではない。だから、どんな思いも「偽善」なのかもしれない。けれども、それを相手への心配りというのであれば、その人達とのふれあい、そこから感じたものをプラスした時に本当の言葉になる気がしました。

私に何かできないかとチャリティ講演会を事務局や賛同してもらった方々と作り上げた事を体験して、人の温かさを一段と感じられました。また、被災者のお話を直接聴いたこと、そこにいるその人と触れ合ったことで、本気で「生きてくれていた良かった」と溢れそうになる熱いものを抑えるゆとりのなさを感じる事ができました。

このちょっとした思いを感じてから発する言葉と、そうでないときの言葉では明らかに伝わる思いも違っていたように思います。また本気だったと思います。

人の体験はそう簡単にはできない。だからこそ、その人達の話を交わす時間を大切にしたいなと思いました。偽りない気持ちで・・・。

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