幸せって当たり前すぎて見えづらい

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震の際、群馬に居た私も震度5という揺れを体験しました。いまだに怖くて仕方ありません。けれども、そんな時だったからこそ感じられたものがありました。

心配してくれる家族が居ることで、心配はかけてしまっているけれど生きていることを実感できました。
声をかけてくれる人が居る事で一人じゃないんだと思えました。
携帯電話は正直、制限がかけられてしまい、メールなどもリアルタイムで届かないし、送れないし、電話も通じないので、不安だけが増してしまう状態でしたが、運よくネット環境が繋がっていたために、スカイプやツイッターで会話を交わせたり、安否確認したり、新しい情報を得たりすることもできました。

ネット状況があるからこそ、知らない人達ばかりの地でいる心細くなりそうな私は、ネットを通じて関わって支えてくれる人が居て、心細さや不安の中でも冷静で居られることができたように思います。ネット環境があることのありがたさと、居てくれる人があることの幸せを感じました。
よく「何か形にしないと・・・」って思う人も居るかもしれませんが、そこにその人が居てくれることの幸せを感じられたひとときでした。

それでも現実には知らない人の中に居るわけで、早く家族にあいたい、娘にあいたいという思いがありました。いつ帰るのか、いつ動くと混乱しないのかを考えた上、昨夜決断をし、帰ってくると、待ってくれている家族がいました。
「ただいま」「おかえり」
たったこれだけの言葉の交流がこんなに幸せなんだと思えた瞬間はなかったと思います。
今朝も起きたときに、「おはよう」というと「おはよう」と返してくれる声がある。

当然すぎて見えてなかった幸せを感じました。
というよりは、頭では分かっていたけれど、感覚として理解できたって事かもしれません。

支えてくれた方にも感謝。家族にも感謝。そして生きていられたことにも感謝。

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