自己否定のレベルと連動するもの

自己否定のレベルと、ニーズ(駆り立てられるようにエネルギーを使うもの)は連動するというのが、私の中の発見です。

自分は何とだめな人間なんだと思っているときは、「こういう人であらねば」「こうでなくちゃ」という理想に近づくためにもがき苦しむことにエネルギーを注いでしまっていて、決して心地良いエネルギーではないんです。

けれども、こうしていくためにもう少しここを強化していこうかなって、自己否定なく思えているときには、その状態に向けて心地良いエネルギーを使えていて、駆り立てられるような思いはないのです。

前者は理想であり、自分から遠いものを得ようともがいている感覚。後者はそうなる事を自分が信じられて、そうなるための時間を踏み出している感じ。感覚の差といわれればおしまいですが、前者は苦しいのです。健康を害する事も多々あります。けれども、後者はすごく純粋な思いのように感じられるのです。

そうは言っても「自分を許してあげましょう」という言葉で涙する人が多いように、自己否定というのは知らないうちにしていることが多い気がします。
けれども、駆り立てるものがあるときには自己否定をしている可能性が大きいんだなと思いました。

具体的に言うと、自分は「コーチとしての完璧」を求めていました。だからあれが足りない、これが足りない。何とか埋めないと「コーチ」としてやっていけないんじゃないの?と思うほどでした。だから、コーチングを深く理解することにどれだけのエネルギーを注いできたでしょう。
けれども完璧なんてありえないんですよね。レベルが変わっていくし、変化もしていくものですから。そんなありもしない完璧を私は空想で作り上げて、それを追っかけていたのです。そのことで、自己否定も散々してきました。

けれども、「完璧ってありえない。今こうして深く気付いたりする成長段階も私なんだ」と自分の否定が止まったとき、自分ではなく本来の私の本質である「相手を思う気持ち」が帰ってきました。「相手にとってよりよい関わりのためには○○を磨きたい」という方向に変化したのです。そこには駆り立てられる思いはなくなっていました。

こうして何度も繰り返し繰り返ししながら、駆り立てられる思いや純粋な思いを繰り返して、私は生きているのでしょうね。自己否定が悪いわけではなく、そうしている自分に気付いて、本来の心地良いエネルギーの使い方に修正してあげられたら、それでいいのかなって思います。
駆り立てる思いも大切にしたいものです。ゼロになることはない思いを、私は家族に満たしてもらえるのですから、幸せです。

そんな自分をまるごと好きでいたいですよね。

何となくコーチングセッションをしていて、自分の中での発見だったので、記しておきます。

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