「人類皆兄弟」って言葉がありました。

兄弟だからこそ、家族だからこそ、無条件にやってあげたくなることがある。本気で心配する。

時に余計なお世話と言われながらも、それでも関わり続ける。

ふと、いい言葉だなあと思いました。きっかけは・・・

 

先日、クラウン(一般的にピエロと言われるが、本当はクラウンという職業らしい)の公演を観てきました。

その時に、参加してくれている人の中に「お客様」も「参加者」と呼んでいました。

確かに、客席との掛け合いが結構楽しいし、参加している感があります。

 

その「参加者」と言う言葉をパンフレットで目にして、ふと「仲間ってよく言うけど、仲間って線を引くから、ここまでが仲間ってなってしまうだけで、本当は線引がなかったら、みんな仲間なんじゃないのかなあ。」と思ったんです。

 

以前、東京でエスカレータの前で、一歩が踏み出せなくて困っている見た目80歳以上の女性がいらっしゃいました。

その方が、「すみません。私、エスカレーターに乗るタイミングが解らなくて、乗れないので、肩を貸してもらえませんか。」と声をかけてくださいました。

なぜか、結構声をかけられやすいのですが、その時は、何人も右側から抜かしていく人が居たのですが、私がどうしたのか気になって、どうされたんですか。って声を掛けたんです。

お節介だろうと思いながらも声をかけたらそのような事・・・。

そのおばあさんに、「行きますよ。肩ですから、はいって声かけますが、タイミングが合わなかったら、倒れても良いですから、一歩すすみましょうね。私、しっかり手すりを持って乗りますから」

と声をかけて、自分がのり、直ぐに「はい」と声をかけました。すると、手すりを握った手と、私の肩においた手にガイドされるようにすんなり乗られました。

 

よりによって、長いエスカレーターで、その間、ずっと私の肩にはおばあさんの手が。

最初はお声掛けしようかと思いましたが、ガシッと掴まれた肩を動かした方が、不安になるだろうとずっと前を向いたまま乗りました。

降りる時も、お声掛けをして、足を出すタイミングを声をかけました。

おばあさんは、「ありがとうございます。階段の方が良いんだけど、エスカレーターしかなくて。本当に助かりました。ありがとうございます。」と。

おばあさんの手助けを出来た事が嬉しかったです。お年を召した方は階段が嫌なんだろうと言う認識がありましたが、そうじゃない事もあるんだと知りました。それ以来、エスカレーターで止まっている人が居ると、「あの時のおばあさんは元気だろうか」と考えてしまいます。まるで、他人だし、たまたま出会った一回なのに、家族みたいに・・・。

 

 

以前、「仲間なら何でも話すべき」と言われて、疑問を思ったことがありました。それは、私の中で「仲間は広いのに、誰にでも何でも話していたら、傷つく人だって居るんじゃないか。仲間って相手を思いやる事じゃないのか。」と私が感じていたからです。「仲間」って言葉一つをとっても考え方が違えば、遠ざかってしまうこともあるけれど、違う考えだからこそ、考えさせられることもあって、私にとっては、その人達はまだ仲間だという意識があります。

けれども、その人達にとって、全て話さないように見える私は仲間として受け取ってもらえていなく、距離がある状態です。

 

概念って色々な捉え方があるから、たしかに付き合いやすい人、付き合いづらい人って言うのは感情によって距離はできることもあると思います。

けれども、クラウンの方々を見ていて、「仲間だなあ。周りを本当に思いやってくれているなあ。」と感じたので、「参加者」ではなく「仲間」という言葉が私の中に浮かんだんだと思います。

 

そして、「人類皆兄弟」

考え方が違っても、違うって事を議論したとしても、また次の日には笑っていられる間柄を作りたいものです。

相手を思いやれる間柄を作りたいものです。

綺麗事って思われるでしょうけれど、あり方として、私は「人類皆仲間」で居たいです。

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